Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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南仏で出会った大和撫子の化石?(後編)(2007.06.13)


太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。 
──ヨハネ福音書 第1章第1節──
言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿りたまえけり。 
──ヨハネ福音書 第1章第14節──

10人兄弟の4番目。姉として、最年長として育った彼女は、母親との距離が最も近かったと言います。床に臥した母親の8年間の最終ステージを、彼女は自分のフランスの自宅で看取っています。そのうちの1年半は、長崎での介護でした。最期は痴呆症が進み、その看病たるや想像以上のものだったと思うのですが、それでも懐かしそうに彼女は語ります。

「母は当時(戦前)、外国人と結婚して異国の地で暮らす人生を選んだぐらいの人だから、モガ(昭和初期のモダン・ガール)だったのかも」

お母さんの思い出で印象深いことって何ですか?
「小さい頃は母の泣いている姿って見たことなかったわ。戦時中の粗末な暮らしでさえ文句を言わなかったと思う」

マダムは9歳で、8歳の妹と一緒に日本の小学校1年に入学しました。小さい時の1年は体格の違いがより顕著。誰の目から見ても、同級生よりかなり年上であることは明確です。しかしそのことを1度も気にすることなく、妹と連れだってゆうゆうと通学していたそうです。その理由のひとつは、彼女の母が学年が遅れることなどに少しのこだわりも見せず、口にさえしなかったことであろう、とのこと。

「親が、かわいそうだねえ、この子は不憫だねえと思うと、その気持ちは子供にも伝播していくものよ。親が堂々としていて御覧なさいな。子供はマイナスイメージを抱くことなく、のびのび育つものなのよ」

彼女自身もそんな母親の育児方針を継承するが如く、女手ひとつで6人の子供を育て上げました。



もし貴方がよいことをすれば
人々は貴方の利己的な下心を避難するでしょう。それでもよいことをしなさい。
──ケント・M・キース──

「もうひとつおもしろい話があるのよ……」

大雨や嵐の時は、彼女のお母さんは声高らかに謳ったそうです。
「雨よふれふれ、どんどん降れ♪ ここには屋根もあるし、食事もあるし、なんてこつなか(なんていうこともない)」(九州女だったので)
子供心に雨風凌げるというのはなんて幸せなことか、と思ったのだそう。

沖縄玉砕のあと、一家は佐賀県小城郡清水の収容所に連行されました。
「母といえば別段怯える様子もないので、私達は普段とかわらない母の行動に安心して、なんとなくバカンス気分だけで、しかも久しぶりに車に乗れる感激で、嬉々として我先にと乗り込んだのよ。今振り返れば、7人の混血児をかかえ、行く末を母はどんなにも恐れおののいていたことでしょうか? 収容所の待遇もわからず、でも私たちには微塵にも怖れを見せなかったのです」

彼女はこの予期していなかった旅を機会に、何か新しいものを着たいと、祖母の単衣や着物を解き、防空頭巾、もんぺや上着、七分コートなどを作ったそうです。出発当日の服は、真っ白なシーツのブラウスに、縞のテーブル掛けで裾に赤やグリーンの縞模様が色鮮やかにでるように縫い上げたひだ吊りスカート。まるで映画のサウンド・オブ・ミュージックようなシーンだわ。

「でもね、木炭トラック(ダットサン)だったから煤だらけで真っ黒になっちゃったのよ。時速20キロから30キロのスピードですたこらすたこら。おまけに同じ速度で何台かすれ違うもんだから」
今でも愉快そうに話します。

「振り返れば、当時の不安定な社会環境の中で気丈な母の振る舞いに安心してか、無頓着というか無分別というか、まったくおそるることなく過ごした時代だったわ」
これも母に対する絶対の信頼感、怯えのない母の様子は無意識に子供にも伝播するのでしょう。

戦時中の彼女の母の慰めは、毎晩床につくと、彼女と妹さんに当時の流行歌、特に『大利根月夜(おおとねづきよ)』を歌わせることでした。その歌詞の中の「愚痴じゃなけれど世が世であれば……」というくだりで、彼女の母はいつも“うーん。うーん”と涙声を漏らしたそうです。

「それにお母さんは、どうも日本が負けることを知っていたみたいなふしがあるのよ」(白須次郎!のように?)
一億総洗脳時代に生きていたからか、マダムはいいます。

「とても難しいことだけれど、いつも真実がなにかをきちんと見極めなくてはね」

戦後になって情報解禁ののち、戦争に関する書物はほぼ読破したそうです。これは現代に当てはめても、そのまま正しいことといえるでしょう。間違いないと思われるようなことでさえ、疑問の気持ちを大切に、なるべく多くの情報を集めて自分自身の判断材料にするのです。



人々は判官びいきが好きだが、強者にしかついていかない。
それでも弱い者のために戦いなさい。
──ケント・M・キース──

彼女自身も波乱万丈な人生だったことでしょう。サイゴンに生まれ、長崎、東京、横浜、コルシカ、フランス本土と生活の場を転々としたそうです。前編でお知らせした通り、マダムは2005年秋に自叙伝を上梓なさいました。でも、そこに描かれているのは、若干20歳までのお話しです。あれは序章、これからが人生の本番とおっしゃる続編には、彼女の大好きな軍歌のフランス語訳や、日本語の短歌や俳句も載せられることでしょう。

そして、読み終えた後には、どんな状況下であっても気持ちのもちようひとつで、人生の幸不幸を自分で選べることを知るに違いないのです。
あぁ、でも、豊かで実り多い毎日を過ごすのに忙しいマダム、いったいいつ書き上がるのかしら。

──えっ? 貴方もマダムに会いたくなった? 
天気のいい日に南仏・トゥルーズの街を、物憂げに散歩していてご覧なさい。きっと向こうから声をかけてくれるでしょう。
「こんにちはー。道には迷ってないですかーー?」って日本語で、それも元気なおおきな声で。