Dr.MANAのセンシュアル・ボディパーツ・マニアック(セレクト編)その10(2010.12.16)
イラスト/meiko
その10 瞳 ── 映す愛の情炎
京都のお盆は大文字の火が落とされてフェイドアウトしていきます。暑かった夏も、その夏の恋も、もはやはかない燈芯の揺らぎです。遊蕩耽美の歌人と称された吉井勇の歌にたしかこういうのがありました。
ふと見れば大文字の火は花かげに君が瞳に映りてぞ見ゆ
8月16日の夜、祇園白川あたりから大文字の火を仰いでいたのでしょう。時に通る電車の音と流れる水の音のほかは喧騒もなく、黒々とした家並みの彼方には動く火がゆれています。男がなにげなく振り返ると、花の影が女の白い額に斜めして、額の下には燃える紅い炎が映った黒い瞳がまっすぐに男を見つめています。その夜の二人のそれからに思いを馳せれば、なんと官能的な情景ではありませんか。
「目は口ほどにものを言う」といいます。それはどういった場合のことでしょうか? 自らの思いの表出において目は口を陵駕すると思います。口はことばを語る表白を行い、目はこころを表す表情を専らにします。愛や恋の情は言語ではなく身体表現によって相手に伝達させるべきもの。これは進化論的にも当然ですね。
歌は情景を絵画的に浮かび上がらせます。女の瞳に映っているのは花(百日紅や夾竹桃あたりか?)と大文字の揺れる火だけではありません。女を見ている男自らの表情も映します。瞳は平板な鏡ではなく意思と感情をもった潤いに湛えられています。言葉を交わすまでもありません。
つくづく日本人に生まれてよかったと思います。美しい四季があり、長い間の人々の思いがこもった伝統行事があります。黒い瞳だからこそ彼も深みのある映像が見られるのです。(ブルーとかグレーの瞳では自分を表現する彩りはあっても、光景を映して感情を喚起させるには淡すぎませんか?)
もうひとつ官能の深さを現していることがあります。この歌では男と女の感情の高まりはイーブンだと思われることです。〈見る側〉と〈見られる側〉という区別がないのです。官能の場において〈する〉と〈される〉は一方に偏ることはありません。見るには見られることが含まれますし、見られるには見ることが含まれます。
古来「精神と肉体の対立」という命題がありました。〈自己自身なのか〉と〈対象なのか〉の違いです。これを対立ではなく両義的であるとしたのが、フランスの哲学者モーリス・メルロポンティです。自己の肉体は二極対立を超えて明確に「どちらともいえないもの」としたのです。なるほど官能の両義性に共通します。(彼の『眼と精神』を読んでいて気づきました)。
官能は突然にからだのある部分に集中的に表現され、その一点から発火して一気にこころもなにも存在ぐるみを焼き尽くしていきます。時と場所は予期せずして襲ってきて、感動と興奮の相互啓発によってひとつの作品が形づくられていく…。からだのそれぞれの部分へのケアが大切な理由です。連載当初に私がもやもやと思っていたことが、どうやら形づくられてきたようです。
ところで、瞳孔の外側には虹彩(アイリス)と呼ばれる環状の部分があります。瞳孔を拡大したり縮小したりする筋肉があって眼球の形成時に細かい皺がよります。この皺は誕生する前から形成が始まり2歳ころからほとんど変化しません。皺のパターンを指紋のように固有識別情報として個人認証に利用するのがバイオメトリクス認証(生体認証)の一つである虹彩認証です。まさに瞳は個性そのものですが、模様は変わらないのに色は変わるとか。白人系では生まれたてのブルーが成長するにつれてグレーやダークグリーンになったりします。茶色や漆黒は変わることがありませんから、ほとんどの日本人にはびっくりです。
眼の周囲に目を転じれば(?)、アイラインは古くから行われてきた化粧法です。色や形によって眼の表情を(つまりは感情の表出を)自在に演出することができます。お祭のお稚児さん化粧は青いアイラインを瞼に引き、鼻筋を白く塗り、唇に朱を入れます。色彩の選択に興味を覚えました。 専門家に訊けば色のシンメトリーとかコーディネイトとかの理論があるのでしょうが、私は数千年前からの色彩理論である陰陽五行説に注目してみました。表の詳しい説明は別の機会に譲りますが、眼は春であり肌は冬とあって、青は伸びる若さの色で黒は老いの落ち着きを表象しています。アイラインの青と瞳の黒は生と死をもたらす官能そのもののようです。美しさを保つということは肌の老化に抵抗するアンチエイジングよりも、一義としてイキイキとした瞳による官能的(=感性豊かな)生活によってもたらされるものかもしれません。
東洋の美女楊貴妃は『長恨歌』でこう歌われています。
「眸(ひとみ)を回(めぐら)して一笑すれば百媚生ず」、と。