Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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映画『つぐない』に思うこと(2008.04.30)


 日本への旅の空の上で、話題の映画『つぐない』(http://www.tsugunai.com/)を観てきました。音感と色彩のハーモニー、それにストーリー展開を、登場人物の目線で現在と過去に行きつ戻りつする重ね塗りで表現したことによって、堅牢なイギリス映画に仕上がり、さすが文芸大作といった趣が感じられます。
 読み物としての主役はブライオニー・タリスなのでしょうが、映画ではセシーリア・タラスが断然のヒロイン。演じるキーラ・ナイトレイの美しさが息づまるほど蠱惑的であり、かつ思いつめた清純さをも完璧に表現しているのです。アリストテレスのイデアとして思えば、女性の美しさとはそのアンビヴァレントな二面性──男を誘うからだと思い慕う純粋なこころ── を併せ持つことの中にあるのでしょう。その場面に直面すると、男性は感激するようですよ。「はっ」という意外感を引き出すのが恋の早道かもしれません。それはさておき……。
 ブライオニーを演じたのは13歳の少女をシアーシャ・ローナン、18歳の看護学生をロモーラ・ガライ、77歳の死を前にした作家をヴァネット・レッドグレイヴの3人。彼女たちはまったく違和感ないくらいに酷似でした。一方、セシーリアの相手であり、ブライオニーの一方的思慕の対象であり、それ故にこそ無垢という仮面をした邪(よこしま)の陥穽に突き落されたロビーの役は、ジェームズ・マカヴォイ。やさしさとナイーヴさによって男の性の暴発をからくも制御している危うさ、そんなところが表情、とくに視線に出ていたように思います。


 この映画はいろんなことを考えさせてくれました。幼なじみのセシーリアとロビー。お嬢様と使用人の息子、彼らはともにケンブリッジを卒(お)えて田舎の館に戻ってきて、今はモラトリアム。男と女を意識してから、苛立ち、衝突するような関係でもあります。ロビーはメディカルスクールに戻って医者になることを決意し、あるきっかけで二人は愛を確認して抱擁するのですが……。
 愛はひきさかれ、そのためにまた美しく昇華してしまった心の欠片となりました。ロミオとジュリエットがそうであったかのように……。ドラマチックにならなくてはいけないがゆえの悲哀。彼らが何事もなく一緒になっていたとしたら、生活感漂う、ささいな原因の罵り合いで別れることになったかもしれません。それでもなお「ささやかな日常」は、なんとかけがえのないものなのでしょうか。
 現代ではDNA鑑定などが可能なので、こんなストーリーはありえないだろうと思ったり、いや痴漢冤罪事件なんかを見たら“無垢の仮面”の恐怖は変わっていないのではないかと思ったりもします。
翻って自分はどうだったか。もう記憶も定かではない残酷かつイノセントな少女であった遠い昔の嘘や企みが、もしかしたら人生の重大な分岐点に何かしら作用したかもしれない──。薄ら寒い思いもあります。さて、この映画のキーワードは『cunt』、無垢が知っている単語ではないのです。これ、PG-12である唯一の理由(?)かも……。
 この作品は映画だけで観たら重厚な質感は伝わっても、ストーリーはそれほどダイナミックではなく、撮影的にはダンケルク敗走場面の長回しに感嘆する程度かもしれません。私はまだなのですが、もしかしたら、どうも大作といわれる原作『贖罪』のほうが、作品世界としては数倍まさっているのかも知れない、と感じました。また、本を読んでからの感想を書いてみますね。